大石邦子の心の旅

こころの主治医

今更とも思うが、この頃何となく寂しくなる時がある。そんな私を励ますように、庭の沙羅の花が咲き始めた。ひっそりと咲き、ひっそりと散ってゆく純白の花である。

震災の前は、私の部屋に来る人は、みんなこの木の下を通ってきた。家は今使えなくなったが、沙羅の木だけは益々大きく天を衝く。

神父さんも、この花が大好きだった。私を訪ねる時は、必ずこの木の下から声をかけた。

神父さんは、若い時に日本の大学に留学した。卒業後は日本を代表する総合商社に勤務し、日本の高度成長期時代のアメリカ駐在員として、大きな商談に立ち会った。

通訳を兼ねた接待役だった。自分に任される接待費は莫大で、余りにも莫大で、ある時ふと、自分はこれでよいのかとの疑問に苛まれ始めたという。貧しいメキシコから未来を嘱望されて送り出された学生だった。

3年後、彼は会社を辞めて国に戻った。自分は何をなすべきか、思案の末、彼は再びメキシコ神学大学に学び、後に大神学校教授、修練院院長も勤めた。

彼が再び来日したのは、昭和58年、神父としての来日だった。私が神父さんに出会ったのは、その頃である。

私は一応カトリックだが、昏睡状態のなかでの洗礼で、名ばかりの信者だった。それでも神父さんは、どんな頓珍漢な質問にも、投げやりな訴えにも、否定にも、それは丁寧に心を込めて、私の分かる言葉で、分かるまで、向かい合って下さった。

以来20年間、東京、会津、大津、京都での司祭生活を終えて、平成14年日本を去った。神父は全て独身ではあるが、それにしても帰国時の荷物はボストンバッグ一つとは。清貧、貞潔、従順を貫き通した誠実な人だった。

メキシコへ帰国後は、誰もが手を出さなかった、麻薬から国の子どもを守り、家族を守る戦いに最後の人生を懸けた。そんな姿に、作家の曾野綾子さんはじめ、日本の友人たちも彼を支え続けた。

イラストイメージ正月明けだったか、元気なはずの神父さんから、ガンの手術を受けるとの電話が入った。狼狽える私に穏やかな声で言った。

「治ったら、今度こそ、いい神父になれると思う。苦しむ人の気持ちを、今までも分かっていたつもりでいたけれど、本当は分かっていなかったということが、分かったんだ。ごめんね…」

そんなことはない!

「神父さんは、私の心の主治医、神父さんほど、私の心の奥の奥を察してくれた人はいなかった…」

しかし、病の進行は速かった。神父さんから最後の国際電話が入ったのは5月7日だった。

「今、僕の頭は冴えている。でも、これからどうなるかわからない。だから、今のうちに言っておきたい。長い間ほんとうにありがとう。みんなに伝えて、有難うって…」

震えが止まらなかった。

ラレス・ハイメ神父は、その日の夕方から意識がなくなり、5月22日、67歳の生涯を閉じた。

神父さん、今年も沙羅の花が咲いたよ。

(2017年7月記)
審J2005098

大石 邦子 エッセイスト。会津本郷町生まれ。
主な著書に「この生命ある限り」「人は生きるために生まれてきたのだから」など。